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イベント情報


               


          大河ドラマ「龍馬伝」の放映を記念致しまして、

        
 




                 
 
  龍馬の手紙復刻版

 『 霧島山登山の手紙 』
 
  (京都国立博物館所蔵)
 『龍馬の遺言 三吉慎蔵あての手紙』
  
 (下関市長府博物館所蔵)
 『長崎を愛した幕末の風雲児、その33年』
                     
龍馬の年表
              を展示しております。


     ●場所  1F ファッションフロア

    長崎出身の福山雅治さん主演大河ドラマ 「龍馬伝」が
  放映になり、長崎は空前の龍馬ブームとなっています。

  この機会に、ぜひ「本物の龍馬に」接していただきたいと
  思い、有名な手紙二通を原寸大に複製して展示しており
  ます。

  「霧島山登山の手紙」は乙女姉宛てに、鹿児島の
   旅を中心に、西郷隆盛との交流やお龍との新婚生活ぶり
  を詳細に記した手紙です。
  
「三吉慎蔵あての手紙」 は龍馬が暗殺される年の
  五月に妻、お龍のことを託した手紙です。
  梅花をかたどった印が 捺されていることで有名です。
    是非、ご覧くださいませ。
チトセピアは、                         
「ながさき龍馬くん」を応援しています。
 ながさき龍馬くん 

 
              



  
 龍馬とお龍の新婚旅行を記録して、
 有名な霧島登山図が描かれている手紙です。
 慶応2年は龍馬にとって激動の1年でした。
 1月に薩長同盟を成功させ、その直後、寺田家で
 負傷。薩摩藩鄭に避難し、西郷隆盛の誘いで、
 お龍とともに、鹿児島へ療養の旅に出ます。
 
 手紙の中心は鹿児島の旅の様子です。

 鹿児島滞在は80日余り、龍馬とお龍の唯一の
 安らぎの日々でもありました。
 翌年の慶応3年、11月15日、近江屋にて刺客に 
 襲撃され、龍馬闘死。

 



 
 「霧島山登山の手紙」 京都国立博物館所蔵   
   
   現代語訳
 高知県立坂本龍馬記念館
   
    慶応二年(1866年)十二月四日

  乙女さんに差し上げます。
  前々から申し上げていた妻、龍は、望月亀弥太が戦死した時(池田家騒動)の難に遭った者
  や土佐から出てきた者が大変お世話になったところです。
  (しかし)この家も国家を憂えて(幕府に逆らい)結果、家を滅ぼすことになってしまいました。
 
  年老いた母親、お龍とその妹二人、男の子は食うや食わずの赤貧の生活であまりにも気の毒
  だったので、お龍と十二歳の妹(君枝)、九つの弟(太一郎)を預かって、君枝と太一郎は摂津
  の神戸海軍所の勝安房(海舟)に頼みました。
  お龍は、伏見寺田屋の女将さん、お登勢に頼みました。
  この人は学問のある女性でなかなかの人物です。

  今年正月二十三日夜の難に遭った時も、この龍が居たからこそ龍馬は命が助かりました。
  {その後}京の屋敷(薩摩藩邸)に引き取り後は小松(帯刀)西郷にも私の妻だと知らせました。
  このことを兄上にもお伝えください。

  申し上げますと、京都柳馬場三条下がる所、{ここに住んでいましたが(池田屋騒動)の難と
  ともに家が滅び、跡形もなくなりました}
  楢崎将作{死後五年となる}その妻は存命。
  私の妻はその将作の娘です。
  今年二十六才、父母のつけた名前は龍、私がまた、鞆(とも)と改めました。

  京都の薩摩屋敷に居る間、二月の終わりとなりますと、嵐山に遊びに来た人が慰みにと桜の
  花を持って来てくれました。
  その中の中路某のお母さん(新道学者で変人)は大変面白い人です。
  和歌なども上手です。この人も私の話を面白がり、妻の龍を可愛がってくれ、たびたび使いを
  寄こしてくれます。

   この人は以前、中川宮(青蓮院宮、朝廷の中の幕府派)の悪だくみに腹をたて刺し殺そうと
  した人です。もともと宮中に奉公していた人ですから、そういうことにはよく通じている人です。
  公郷たちでも知らぬ人はありません。
 
  この後、三月三日大阪に出て四日、蒸気船に二人とも乗り込み、長崎へ九日、十日、
  鹿児島へ行きました。
  この時、薩摩の京都留守居役、吉井幸助も同行して、船中、色々おしゃべりしてきましたが、
  温泉に行こうと吉井に誘われ、二人連れで霧島山へ行く途中、日当山の温泉に泊まり、
  また、塩浸しという温泉にも行きました。ここは大隅地区で、和気清麻呂が庵を作って修行
  したところです。

  陰見の滝があり、その瀑布は百メートルの高さから落ちて、滝の途中はがけにも触って
  いません。
  実に、この世の風景とは思われぬ珍しいところです。ここに十日ほど泊まり遊びました。
  谷川で魚を釣り、ピストルで鳥を撃ったりして、本当に楽しく過ごしました。
  その後はまた、山奥深く入って、霧島の温泉に行き、さらにまた、山頂に登りました。

  天の逆鉾を見ようと妻と二人ではるばる登ったのですが、橘南谿の中国四国などの旅行記
  「西遊記」ほどではなかったですが、道がひどく女性の足には大変きつかったのですが、
  とうとう「馬の背越え」までよじ登りました。
 
  ここで一休みしてまたはるばると登り、ついに頂上にのぼり、噂の天の逆鉾をみました。
  その形はというと、これは確かに天狗の面です。
  両面にその顔が作りつけてある、青銅作りで正面から見たところです。
 
  やれやれと腰をたたきながらはるばる登ってきたのに、こんな絵のような思いもよらぬ
  おかしな顔つきの天狗の面があり二人で大笑いいたしました。
  ここは本当に高い山なので、見渡す限り広々としておりすばらしかったですが、ただ、
  四月のことでまだ寒く、風も吹くものですからそろそろ降りました。
  噂どおり霧島つつじが一面に咲いて化粧したようにきれいでした。

  その山の大体の形は
  ○このサカホコは少し動かしてみるとよく動きます。
   また、あまりにも両方へ鼻が高く、お龍と二人で両方から鼻を押さえてエイヤと引き抜いて
   みたら、わずか四、五尺(1メートル20cm~1メートル50cm)で、元どおり収めました。
   鉄で作ったものです。

  ○この穴は火山の跡です。直径は三町(350m)ばかりありすり鉢のようで、
   下を見ると恐ろしいくらいです。

  ○ここには霧島つつじが非常にたくさん咲いています。

  ○イ~ロ この間は山坂、焼け石ばかり。
   男でも登りににくく危ないことこの上なし。焼け石はさらさらで少し泣きそうになる。
   五町(600m)も登ればわらじが切れます。

  ○ロ~ハ この間はあの「馬の背越え」(噴火口の縁を登る)です。
   なるほど、左右目が届かぬくらい下がかすんでいます。
   あまり危なかしいのでお龍の手を引いて行きました。

  ○ハ~二 この間は滑っても落ちる心配はありません。

   霧島山から下り、霧島の社にお参りしましたが、ここは大きな杉の木があり、お宮の
   様子も非常に荘厳な雰囲気がありました。
   そこで一泊、そこから霧島の温泉の所に戻ると、吉井幸助も待っていて一緒に四月十二日、
   鹿児島に帰りました。

   それから、六月四日、「桜島丸」という蒸気船で長州(山口県下関)への用事を頼まれて
   出港。この時妻お龍は、長崎へ月箏を習いに行きたいと、同船しました。

   そこで長崎の知り合いにお龍を頼み、私は長州に行ったところ、思いがけなく、
   別紙に書いたように(下関海戦図=幕府軍と高杉晋作率いる長州軍とが、下関沖
   厳流島付近で戦う様子を、説明入りの見取り図で詳しく説明している)
   応援を頼まれひと戦争したところ、運よく勝って、わが身も無事でした。

   その時は長州候(毛利)にもお目にかかり、色々ねぎらいの話があり、羅紗の洋服地
   など下さり、それより薩摩に帰り海戦のことなど報告し、再び長崎へ行ったのは
   八月十五日でした。
  
   世の中のことは月と雲です。まことにどうなるものやら見当もつきません。不思議なものです。
   家にいて、味噌よ薪よ、年の暮には米の受け取りよなどと言っているよりは、
   天下の世話(政治)はいい加減のもので、命さえ捨てる気になれば、面白きことなり。
   
   これからまた春(慶応三年)になれば妻を鹿児島に連れて帰り、自分はまた京都で戦が
   始まると思うので、ことによったらそちらのほうへも出かけてみようかと思っています。
   そうした中でも私が安心しているのは、西郷吉之助の奥さんも彼も大変気持ちのよい
   人なのでここへ妻をお願いすれば、何の心配もありません。

   この西郷という人は、七年も島流しにあった人です。
   それというのも病気のように京都の朝廷のことが気になり、初めてアメリカのペリーが
   江戸に来た時は薩摩の先代の殿様(島津斉彬)の内命で水戸に行き、(勤王思想を持つ)
   藤田東湖のところにいきました。
   その後、その殿様が亡くなられてから、藩の方針が変わり、朝廷に心寄せるものは
   殺されたり、島流しにされたり、西郷も島流し(奄美大島)の上、牢に入れられていました。
   
   その頃、鹿児島にイギリスが来て戦いがあり、その事態に国中みな西郷吉之助を恋しがり
   とうとう引き戻されて、再び政治に携わるようになり、今では国の進退もこの人がいなければ
   一日もならぬ重要人物になりました。

   人というものは、短気を起こして死んではなりません。
   また、人を殺してはいけないと、話し合っています。
   まだまだ申し上げたいことばかりですが、いくら書いてもきりがありません。
   まあ、ちょっとしたことさえこんなに長くなりますわ。
                                            かしこ、かしこ。
                                     (慶応二年)極月(十二月) 
                                      四日夜書く 乙様。    龍馬  

      解  説
       
        龍馬はこの日、三通の手紙をかきました。
        二通は兄権平宛で、寺田屋でお龍の機転とピストルのお蔭で一命を取り止めた
        顛末と、国の大事に向うにあたって先祖の刀をねだる手紙です。
        そしてこの乙女宛のお龍との薩摩旅行記です。

         現代語訳 高知県立坂本龍馬記念館

  




 
 
    
「三吉慎蔵あての手紙」
  
 
 三吉慎蔵あての手紙
  
 (下関市立長府博物館蔵)
    慶応三年五月八日

  慶応三年五月八日、下関を出帆して長崎に
 
 赴くにあたり、三吉慎蔵にあてた遺書。
  自分に万が一のことあらば、妻おりょうを土佐まで
  送って欲しい、迎えが来るまで面倒を見て欲しい
  と依頼しています。

 
  龍馬が三吉をいかに信頼していたかが、如実に
  うかがえる内容です。
  梅花をかたどった印が捺されているのを見ても、
  重要な書簡だったことがわかります。
  
       


                                                                                                         
   



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